一月の下旬に伊勢まで歩き終え、次はどこを歩こうかな‥と考えていました。 とりあえず、大阪府のHPで見つけた西国街道(京都〜西宮)を、と考えていたのですが、 2月の初旬のスタート直前にコース変更。熊野古道を歩いてみることにしました。 西国街道は生活圏を通る道。個人的に釈然としない出来事があり、あまり知らない土地を歩くことで その出来事を忘れたかったのかもしれません。 熊野本宮大社を目指して、大阪の八軒家浜をスタート。 この石碑は京阪・天満橋駅の近く、永田屋昆布店さんの前にあります。 |
今の八軒家浜はご覧のよう に、きれいに整備されてい るのですが、整備が終わっ たのが2010年3月。 スタートしたのが2010年の 2月でしたのでスタート時 には立ち入る事が できませんでした。 左右2枚の写真は後日 再訪し撮ったものです。 |
八軒家浜は古くから京都 伏見と大阪を結ぶ三十石 船の船の発着場でした。 京都から船に乗り八軒家浜 を経由し熊野詣をしたこと から、熊野古道の起点にも なっています。 ちなみに江戸時代、八軒の 船宿があったことから、 この名前が付いたそうです。 |
谷町筋の少し西の筋を 南へ向かい歩いていきます。 南へ向かう道の横には ご覧のような説明板が ありました。 |
しばらく南へ行き、 中央大通りを越えた所に 太閤下水(背割下水)が。 秀吉の大坂城築城に伴う 街づくりの一環として、 道路整備と同時に町屋から 出る下水を流すために 建設された日本最古の 下水溝。 20kmほどは、なんと今も 現役だそうで‥ |
八軒家浜から1.1kmの所に あった道標。 しばらくはこのタイプの 道標がかなり短い間隔で 立っていました。 |
長堀通、千日前通を越え、 しばらく行った所の道標。 上汐公園の横にありました。 よく見ると、平成二十一年 の文字が見えます。 つい最近できたもの なんですね。 |
四天王寺前に到着。 西大門からみた風景です。 丁度通学時間と重なり、 道を歩くのは学生ばかり。 八軒家浜からここまでで 50分ぐらいです。 |
天王寺駅を過ぎると、 阪堺電車の駅があります。 阪堺電車は大阪の南部を 走る路面電車。 生活の足、ですね。 |
阪神高速の高架の下に あった道標。 「街道」が「かいどう」に。 いつも思うのですが、 道標ってホントに統一感が ありません。 各自治体で立てているので 仕方ない面もありますが、 なんとかならない のでしょうかねえ。 |
陰陽士として有名な安倍晴明 を祀った安倍晴明神社。 安倍晴明の出生地は諸説 あるようですが、 ここ阿倍野が有力だそうです。 安倍晴明を祀った神社では 京都の晴明神社が有名 ですかね。 |
安倍晴明神社の少し南にある安倍王子神社。 熊野古道を紹介するには、九十九王子の話はしておかねばなりません。九十九王子とはWikipediaによると、 九十九王子とは、熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、皇族・貴人の 熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願された。 したがって、その分布は紀伊路・中辺路の沿道に限られる。 九十九王子は、99箇所あるわけではなく、多数あるということの例えのようで、その数も時代や数え方に よってバラつきがあるようです。 その昔、王子は参拝所でもあり、休憩場所でもあり、道しるべでもあったのでしょう。 ここ安倍王子神社は大阪府内で唯一神社の形で残る王子です。 |
しばらく阪堺電車の脇を歩きます。 路面電車って慣れてないと、 後ろから来られたりすると ちょっとビックリします。 |
万代池に到着。名前の由来に こんな話があるそうです。 昔ここには不思議な魔物が 住むとされていた。阿倍野 街道を往来する人を悩ませ ていたので、聖徳太子は 四天王寺から人を遣わし、 魔物を鎮める為にお経を あげさせた。すると魔物は 現れなくなったと言う。 その時の経が曼陀羅だった ことから、曼陀羅池となり、 これが訛って萬代池になった、 とされている。 |
宝泉寺。 平安時代の中期に 開かれた寺院。 |
住吉大社の近くを 通り過ぎると、 右手にちぎり地蔵尊が。 十徳地蔵ともいわれてます。 安産、水火安全、諸病消除、 諸願成就、長寿、良縁、 旅路加護、極楽往生、等々 なんでも叶えてくれる スーパー地蔵尊ですね。 |
道路に埋め込まれた案内板。 この地図は上側が北。 八軒家浜からは南を むいて歩いています。 つまり逆向き。 熊野詣からの帰り道 ならちゃんと見える のですが‥ なんか逆のような 気がするのは 気のせいでしょうか? |
大和川に到着。 ここまでスタートから 2時間強。 川を渡れば大阪市から 堺市へ入ります。 |
南海高野線。浅香山駅の 所で踏切を渡り、 しばらく行くと 無機質な長い高い塀が。 大阪刑務所。 お世話になりたくない ところのひとつ。 |
境王子跡。 ここは神社としての 形は残っておらず、 石碑のみです。 |
反正天皇を祀った 百舌鳥耳原北陵。 天皇を祀ってある 陵墓ですから、 管轄はもちろん宮内庁。 第18代の天皇で、 406年から410年にかけ 在位されたそうです。 |
西高野街道と竹内街道の 分岐点。 西高野街道は堺から 高野山に向かう街道。 竹内街道は堺と大和を 結んだ街道。 |
仁徳天皇陵の手前に こんな案内板が。 熊野へつづくみちと 書かれており、 右肩には青い矢印で 「熊野」の文字が。 まだまだ遠すぎて 実感がわきません。 |
歩道橋の上から見た 仁徳天皇陵。 この日は時折雪が舞う 天気でした。 歩道橋の上は風が 抜けるので寒い‥ |
仁徳天皇陵の西南に ある銅亀山古墳。 昔は古墳の上に高射砲の 陣地があったといわれ、 頂上はかなり荒らされて いて、埋葬の跡もなくなって いると思われるそうです。 古墳そのものにも歴史を 感じますが、高射砲と いうのにも歴史を感じさせ られますね‥ |
仁徳天皇陵の南側を 東へ進み、国道26号線を 越えてから再び南へ。 その後再度26号線に越え しばらく行くと石津神社。 日本最古の戎宮だそう。 なんと西暦前475年の 創建と伝えられている のだとか。 |
大鳥大社の手前にあった 歩道に埋め込まれた道標。 小さなタイル2枚分なので 偶然見つけた、という 感じでしょうか。 もうちょっと主張しても いいのに。 |
JRの鳳駅に到着。 ここまででスタートから 4時間20分。 ちょうどお昼時に なりましたので、 休憩がてら昼食。 |
こんな粋なものが道に 埋め込まれていました。 北王子の王子は 九十九王子の1つの 名残りなんでしょうか? ここから和歌山に入るまで、 だんじりの車庫(?)を ホントによく見かけました。 |
鳳駅の南側の商店街を 過ぎたところにあった 熊野街道の案内板。 大阪から熊野までの 全体像を載せた案内板は これが初めてだった ような気がします。 まだまだ。 ホントにまだまだです。 |
堺市から高石市を通り 和泉市へ。 この辺りには街道を 思わせる街並みが 所々残ってました。 |
聖神社の鳥居と狛犬の 前を通過。 聖神社の本殿はここから 数百m入ったところ。 ここでスタートから 5時間ぐらい。 (除く昼食休憩) |
聖神社の鳥居のすぐ先に あった篠田王子跡。 平安時代に始まった 熊野詣は、貴族の次に 武士層、それから庶民 へと広がり、最盛期には もの凄い人の数が歩く 様子から「蟻の熊野詣」 と称されるほどだった そうです。 |
篠田王子から歩いて 5〜6分のところに あった平松王子跡。 随分距離が近すぎる ような気もしますが‥ |
案内板によると、この石灯籠は小栗街道の伯太 北出口、放光池の堤防、道の西側にあったもので、 大阪湾を航行する船に現在位置を知らせる灯台の 役目を果たしたといわれています。 小栗街道とは浄瑠璃や歌舞伎で有名となった 小栗判官の中で、熊野参詣のため土車に乗った 小栗判官が照手姫に引かれてこの道を通った ことに因んで、熊野街道を小栗街道とも 呼ぶようになったそうです。 小栗街道を称するようになったのは江戸時代 以降のようなので、道標などに小栗街道と 記されている場合、江戸時代以後のもの だと思われます。 |
この道標には小栗街道の 文字がありました。 明治三十八年と刻まれて いましたので、その頃も 小栗街道を呼んでいた のでしょうね。 |
国道480号線を横切り 横尾川の手前にあった 井ノ口王子跡。 あとから地図で調べて みると、住所はちゃんと 和泉市井ノ口町でした。 何が「ちゃんと」なのか わかりませんが。 |
松尾川を越え、 松尾川緑道の中を 少し歩きます。 きれいに整備された 緑道ですが、誰とも 会いませんでした。 もったいないな‥ |
岸和田市に入り、暫く行くと 雰囲気のいい建物の前に 小栗街道の道標が。 奥に貼ってある議員サンの ポスターがちょっと‥ 電柱と道標でキッチリ 挟まれ余計目立ちます。 まあ、ポスターなので 目的は目立ったほうが いいのでしょうがね。 |
東岸和田駅に到着。 八軒家浜からここまで 約35km。7時間弱でした。 帰宅する学生でいっぱい。 まったく別の学校ですが 朝、登校する学生にも たくさん出会ったので 一日仕事を実感。 |