前回の終了地点である JR東岸和田駅の南、 引っ越しのサカイさんが ある角からスタート。 朝の7時前から歩き 始めました。 |
途中で一度県道30号線に 出てすぐまた旧道へ。 しばらく行くと半田の 一里塚がありました。 高さ4m、周囲30mほどで、 ここまで原型を留めている ものは少ないそうです。 高い建物がない時代なら、 よく目立ったでしょうね。 |
この区間を歩いたのは 2月中旬。 ちょうど梅の季節で 所々で咲いていました。 まだ日が昇り切って いなかったので、 写真が暗くて よくわからん‥。 単に撮る腕が ないだけですね。 |
だんじりの車庫。 収納庫と言うのでしょうか? 岸和田のだんじり祭りは 有名ですよね。 子供のころに一度だけ 見たことがありますが、 迫力に圧倒された 思い出があります。 あとは印象に残ってるのは わたあめかな。(笑 |
水間鉄道の踏切を越え、 近木川付近。 この辺りはもう貝塚市。 |
趣のある街並みを 抜けていくと‥ |
正福寺。 この辺りに鞍持王子があっ たようなのですが、石碑 などはありませんでした。 前回の最後でご紹介した 井ノ口王子以降、池田・ 浅字川・鞍持・近木・鶴原 の各王子があったそう なのですが、それを示す ものはなにも残ってません。 次に形として出てくるのは 佐野王子。 |
梅。 だいぶ日も昇ってきて、 写真でもわかるように なりました。 |
佐野王子跡。 もともとは佐野王子神社が あったそうでのですが、 明治41年に近くの春日神社 に合祀され、なくなって しまったそうです。 ここまでスタートから 1時間半ほど。 |
泉佐野市に入りました。 冬場の朝8時半ごろなので まだ影が長い。 |
道標には すぐ和歌山道 ふどうみち の文字が見えます。 ふどうみちの文字の 上には左向きの 指差した手が。 |
日根神社の御旅所。 御旅所とは祭の神輿などが 巡幸の途中で休憩や宿泊を する場所や神幸の目的地。 注意してみていると、 街中でも御旅所を見かける ことはありますね。 ただ、日根神社までは 直線距離でも相当遠い ような気もしますが‥ |
ここ泉州地方は 冬キャベツの産地。 キャベツ畑を よく見かけました。 歩いた頃がちょうど 時期だったので、 まるまると大きくなった キャベツがいっぱい。 |
蓮ノ池。 道中いくつもの池を を見かけました。 (農業用?) 「泉州」の名の由来はここ から来ているのでしょうか? |
大坂夏の陣の合戦場の激戦の舞台でもあった樫井古戦場跡。 1615年、大坂城を目指し紀伊から北上してきた徳川方の浅野軍と、豊臣方の大野軍がここで激突。 徳川方が5千、豊臣方が2万と兵力は豊臣方が優位だったのですが、地の利を生かした布陣を ひいた徳川方の戦術と、功を焦り内輪で先陣争いをしてしまった豊臣方の失敗により 豊臣方が敗北。この結果が大坂夏の陣の勝敗、つまり大阪城の落城をもたらしたそうです。 全然違う話、かつ個人的な趣味の話で恐縮なのですが‥ ここ数年、夏に行われる大坂夏の陣と銘打った三連戦。 歴史的には大阪側が負ける戦いなので、大坂夏の陣の名前は使わないほうがいいのでは‥ 事実、負け越しばっかりだし。 |
水なす浅漬けの販売所。 水なすも産地ですよね。 お酒の肴にピッタリ。 と思える齢になってきました。 |
珍しいビンの牛乳自販機。 北庄司牛乳という聞きなれ ない会社のもの。 地元のメーカーでしょうね。 ラインナップは牛乳に、 フルーツ牛乳、コーヒー牛乳 そういやフルーツ牛乳って 最近飲んだ覚えがないなあ |
道端、側溝のへりに 埋め込まれた道標。 幅が2〜30cmしかないので 溝に落ちかけない限り 見落としそうです。 |
JR和泉砂川駅の北側を 通過し、しばらく行くと 信達一ノ瀬王子があります。 ここでスタートから 3時間強。 |
金熊寺川を越えると 泉南市に入ります。 これで大阪府も 残りは阪南市のみ。 |
阪南市に入りしばらく行くと JR和泉鳥取駅の近くに 波太神社の遥拝鳥居が あります。 そのすぐ下にあるのが 長岡王子。大阪府のマップ に掲載されている写真も これなのですが、案内も なにもありませんでした。 |
長岡王子から少し先、 左手に平安の小径と 名づけられた道があります。 距離にしたら200mぐらい なのですが、昔のままの 山道で、大阪の八軒家浜を 出てから舗装されていない 道を歩くのはここが初めて。 この平安小径を登り、 琵琶ヶ岸懸(びわがけ)に 向かいます。 |
琵琶ヶ岸懸。 下に見えるのが山中川。 琵琶ヶ岸懸の名の由来は 昔、琵琶法師が熊野へ参拝 する際、琵琶を背にここまで 来たとき一陣の突風に足を 取られ転落。愛用の琵琶が 途中の崖の木に引っかかっ ていたという。その後谷底を 流れる水音がコロンコロンと 琵琶を奏でるように聞こえる ので、この谷を琵琶ヶ岸懸と 呼ぶようになったのだとか。 人が一人通れる程の幅しか なく今でもかなり危険かな。 |
琵琶ヶ岸懸を抜けると 再び住宅街になり、 その近くには地蔵堂王子。 小さな公園の前に ありました。 |
再び府道64号線へ出て そのまま南下。所々旧道へ 入りますが、基本的には しばらく府道を歩きます。 歩道がないところが多く、 歩くのには要注意。 |
大阪府内最後の王子、 馬目王子。 車道を挟んで歩道の 反対側にあるので、 道を渡るには要注意。 皆さん結構なスピードで 飛ばしてきます。 |
JR山中渓駅手前には 当時の雰囲気を残した 山中宿があります。 大阪と和歌山を結ぶ 街道は紀州街道とも 呼ばれています。 熊野街道、小栗街道、 紀州街道‥ ややこしい。(笑 |
ご覧の通り道は 石畳で整備され、 いい雰囲気です。 |
旧庄屋屋敷。 江戸時代中期のもの。 庄屋は村の統率者で組頭、 百姓代と共に村方の三役 で、その最上位。 代官等の命を受けて村の 統率にあたったそう。 一般には関西では庄屋、 関東では名主と呼ばれて いたそうです。 |
道祖神。 山中宿の南端に鎮座され 南から邪神や疫病が入って くるのを防いだそうな。 江戸時代紀州藩では12月に 犯罪者や悪疫の病人を 和泉国に追放したそうな。 ここではその時期戸を閉め 悪疫退散を願ったのだとか。 道祖神のおかげで被害が 少なかったといわれます。 よく考えると凄い話ですね‥ |
JR山中渓駅に到着。 ここまでで4時間ほど。 大阪府内のJRでは 唯一の無人駅だそうです。 無人をいいことにトイレを借り、 ホームまで入ってみました。 ホームの周りはたくさんの 桜の木がありました。 満開の頃にもう一度来て みたいですね。 |
山中渓駅からは阪和道に沿うように走る県道を南下していきます。 駅から1kmほど行くと、和歌山県との県境になる境橋。そこにあるのは‥ 日本最後の仇討ち場。文久三年(1863年)が日本最後の仇討ちだそうです。事の顛末は‥ 土佐藩士広井大六は、同藩士の棚橋三郎に口論の末に切り捨てれられた。大六の子、岩之助は 江戸に申し出て、所謂「仇討ち免許状」を与えられていた。岩之助は加太に潜んでいた三郎を発見し、 紀州藩へ改めて仇討ちを申し出たところ、紀州藩は「三郎を国ばらいとし境橋より追放するので、 仇討ちをしたければ境橋付近、和泉側でせよ。」と伝えられた。 文久3年、岩之助は境橋の北側で三郎を待ち受け、見事に仇討ちをはたしたとされている。 これが日本で許された最後の仇討ちであると伝えられている。 今から150年ほど前までは、普通に仇討ちが行なわれていた、ってことですね。 しかし、先ほどの犯罪者や悪疫の病人を和泉国に追放した件や、仇討ちもよその国で行わさせる 紀州藩って‥。 |
先ほどの境橋を越えると 和歌山県に入ります。 世界遺産を抱える県 だけあって、道標も かなり立派なものに なっています。 |
県道から阪和線の踏切を 渡り、旧道へ入った所に 和歌山県に入って最初の 王子である中山王子跡が あります。 石碑と共に案内文と 前後の王子が記載。 和歌山県内では 多少形が違いますが 色や説明方法は この方式で統一されて いました。 |
中山王子の近くにあった 手製の道標。 大正末期までこの道を 通っていたそうです。 地元の方の「誇り」の ようなものを感じました。 |
また県道に戻り、 しばらく南下していきます。 ダラダラとした登り坂を 歩いていき、雄ノ山峠へ。 峠を越えた後の下りは 結構急だったので、逆から くると大変かもしれません。 ガードレールのところに 警察の管内を分ける 案内板が。 何の意味があるのか よくわかりませんが‥ |
JR阪和線のガードを くぐった少し先で 県道から左手の旧道へ。 旧道を入ってすぐの所に 山口王子跡があります。 ここで同じ道を歩いて いるであろう二人連れに 会いました。 |
和歌山市内に入ると 道にこんなものが 埋め込まれています。 その名も「導き石」 |
導き石はご覧のように2個セットが基本。 交差点など道に迷いそうな場所に埋め込まれ、 文字通り歩く方向を導いてくれます。 立てた案内板だと、どうしてもゴチャゴチャ してしまいますし、導き石はいいアイディア だと思います。 この後も導き石は随時出てきて、 とても助かりました。 難点は「導き石、導き石‥」と道路ばかり 眺めていると、景色や古い道標などを 見逃してしまうことでしょうか。(笑 |
川辺王子旧跡。 旧跡、というのは 江戸時代にここから 近くにある力侍神社に 遷座したとされている ためで、遷座までは ここにあったようです。 ちなみに「かわなべ」 と読みます。 |
旧川辺王子跡には 鳥居や小さな社も ありました。 遷座したとはいえ、 近所の人々には 愛されてきたのでしょう。 |
田んぼや集落の中を 抜けていくと、 中村王子跡が。 跡といっても説明板 だけで、碑のような ものはみつかりません でした。 田んぼの中にでも あったのかな? |
力侍神社の前には 川辺王子跡の碑が。 こちらには市が作った 案内板はありませんでした。 市としては古い方を採用、 っていうことでしょうね。 |
力侍神社からすぐ、 国道24号線を 横切ります。 写真は渡ってから撮った ものですが、こんな案内を されると無理に国道を 横断する人が出そうな 気もするのですが‥ |
この辺りは古い街並みが 残り、いい雰囲気です。 歩く道が狭く入り組んで いますが、導き石に従い 歩けば迷うこともなしです。 |
紀ノ川の土手に出ました。 遠くに見える橋が川辺橋で あの橋を渡っていきます。 しかしデカい川です。 |
川辺橋から見た紀ノ川。 橋の長さはかなりあります。 この先にある布施屋の駅から 列車に乗って帰るのですが、 列車の時間まであと少し。 間に合うだろうと歩いて たら橋が思いのほか長く、 途中でギリギリの時間に。 30分に1本なので、逃しても 待ち時間はしれてるのですが なんとなく癪なので 途中からはダッシュです。 |
走ったおかげで無事 列車到着の2分前に 布施屋駅に到着。 35km弱、45,200歩で 約6時間半でした。 |