熊野古道の続きです。 海南駅の南、 熊野一の鳥居跡を 7時にスタート。 |
スタートしてすぐに 祓戸王子があります。 街道からは110mほど 外れたところにあるので こんな山道を登って いきます。 道沿いにはお地蔵さんが 並びます。 |
祓戸王子跡。 祓戸王子は熊野本宮大社 のすぐ手前にもあります。 熊野一の鳥居があった この辺りは熊野への 入り口と考えられ、 ここ祓戸王子で垢離を とって心と体を清める 場所であったそうです。 |
祓戸王子から再び街道に 戻り、しばらく行くと 鈴木屋敷があります。 なんでも全国の鈴木姓の 元祖とされる藤白の鈴木氏 が住んでいたところ。 なんでも牛若丸が熊野往還 には必ずこの屋敷に滞在し 山野に遊んだそうで‥ 家の傷みが激しいのが 気になります。 |
藤白王子跡。現在の 藤白神社です。 ここは熊野九十九王子の うち、五躰王子の一つ として特に格式が高かった 神社です。 |
同じ境内にある 藤白王子権現本堂。 熊野三所権現と藤代 若一王子の本地仏が 祀ってあります。 熊野路で唯一現存する 最古の造像だそうです。 |
藤白神社を出て、しばらく行くと藤白坂にさしかかります。 藤白坂には、一丁ごとに地蔵がたてられており、これらを丁石地蔵と呼びます。 その昔(1700年前半)、全長上人という高僧が、藤白坂の距離を明確にするとともに、 憩いの場所とし道中の安全を祈願するためにと、17体の地蔵を一丁ごとに安置。 その後、時代とともに歩いて藤白坂を越える人もいなくなり、丁石地蔵は谷に落ちたり 地に埋もれたりして消えていき、現存するものは4体しかないそうです。 今は消えてしまったところは新しい地蔵が安置され、17体が復元されています。 この一丁地蔵は当時のものだそう。 きれいな花が飾られ、今でも大切にされているのがよくわかります。 花で地蔵さんがほとんど見えないのは残念ですが。 |
藤白坂を登っていきます。 この日は黄砂の影響で 全体がぼんやりと 霞んでしまっています。 |
四丁地蔵。 ここから急な登りに なっていきます。 |
だいぶ登ってきました。 海南市がよく見える ハズなのですが、 黄砂で殆ど見えません。 |
八丁地蔵。 丁石地蔵は17体なので ここで半分近く。 そろそろ下りになる‥ と思っていたのですが、 登りは続きました。 藤白坂の登り部分だけで 17体だったようで、 単なる思い込みでした。 |
八丁地蔵の先こんな扉が。 開けたら閉めろ、 書いてあります。 獣侵入防止用でしょう。 ということは、この扉の 先は獣がいる、という ことですね。 |
十一丁地蔵を過ぎた辺り から竹林の中を登って いきます。 竹林の落ち着いた雰囲気が いいですね。 |
十四丁地蔵にある筆捨松。 平安時代の初め、宮廷の 絵師が熊野権現の化身で ある童子との絵の書き比べ をして負け、悔しさの あまり持っていた筆を松の 根本に捨てたことから この名前が付きました。 思いあがった絵師を熊野の 神様が戒めた話だとか。 |
筆捨松の横にある硯石。 筆捨松の話にちなみ、 紀州徳川家の初代藩主、 頼宣公が自然の大石に 彫らせたもの。 昭和58年の水害で土砂と 共に押し流され埋もれて いたのを、掘り起こして 復元したもの。 かなり大きな石なのですが 自然の力は恐ろしい。 |
藤白坂を登り切った 所にあるお地蔵さん。 このお地蔵さんで 登り坂はおしまい。 |
歩いていると、道に点々と 小さな石が埋め込まれていました。 ミニ導き石とでもいうのでしょうか。 いつもの導き石とは形が違いますが、 点々と続いているため、 こちらのほうがもっと迷うことはないでしょう。 まあ、普通の導き石より小さいとはいえ、 何個も埋めなくてはならないので、 費用はこちらのほうがかかりそうです。 |
藤白塔下王子跡に到着。 スタートしてから ここまでで1時間弱。 休憩所やトイレも ありました。 藤白塔下王子跡からは 下りになります。 |
つづらおりに走る農道を 串刺すような感じで 古道はみかん畑の中を 下っていきます。 古道のほうが直線的なので 距離は短いのですが、 その分勾配は急。 |
みかん畑を抜け、集落に 入ってきました。 街道から少し外れた所に ある阿弥陀寺の境内には 橘本王子跡があります。 橘を温州みかんの原種と する説に基づき、この地は 紀州みかん発祥の地とも されているそう。 |
橘本王子跡から街道に 戻り、加茂川を越えると 今度は所坂王子。 橘本神社の境内に あります。 橘本神社はみかんと お菓子の神様だそう。 |
この区間を歩いたのは 三月下旬に入ったころ。 もう桜が咲いていました。 和歌山県の地図を見ると この辺りからしばらく 自販機がなくなる模様。 伊勢本街道を歩いた際に 痛い目にあっているので あわてて水分を補充。 |
一壺王子跡。 山路王子神社の 境内にあります。 山路王子神社といえば‥ |
鳥居の右奥に土俵がある のが見えると思います。 秋の大祭時、赤ん坊を 抱いて土俵にあがる 「泣き相撲」が行われて いるそうです。 テレビのローカルニュース なんかでよく見ますよね。 |
市壺の街を抜けると、 いよいよ拝ノ峠越え。 思いっきり急な勾配が 目の前に現れました。 登るしかないのは わかっているのですが‥ |
何度か立ち止まりながらbr>
沓掛の児童会館前へ。 児童会館の横に沓掛の松、 弘法井戸、爪書地蔵の 案内板がありました。 この先、一旦平坦な道に なるのですが‥ |
また急な登り坂。 さすがに堪えます。 |
30分ほどかけて なんとか拝ノ峠に到着。 天気が良ければ 下津の街から海まで 見えるはずなのですが、 ご覧のような有様。 天気がよく、絶景でも 眺められれば、疲れも 吹き飛ぶのですがね‥ ここまででスタートから 2時間ぐらい。 |
拝ノ峠から先は もちろん下り坂。 しばらく下ると、蕪坂塔下 王子跡。元は近くの竹藪の 中にあったのだそうだ。 ここの王子社は 先にある山口王子と 共に明治時代に 宮原神社へ合祀された そうですが、平成になり 地元の方々によって 社が再建されたそう。 |
太刀の宮。案内板によると‥ 戦国時代から江戸時代初期にかけて、有田市を拠点としていた宮崎定直は元和元年(1615)、 大坂夏の陣で豊臣方についていたものの、内紛で大坂城から脱出し、有田市宮原に住んでいた 姉むこを頼って熊野古道蕪坂を越えてきました。 日も暮れて定直は太刀の宮の前で休憩しているうち、そのままうたた寝をしていると夢の中で、 追っ手が何人も来襲し、切りかかってきました。突然のことで身動きがとれなかった定直ですが この時、腰にさしていた刀がするりと抜け、敵を次々と切り倒していきました。 夢からさめると、周囲には二つに折れた定直の刀と、無数の死人が横たわっていました。 しかも定直が拾い上げてみると不思議なことに刀は再びもとどおりにつながったといいます。 定直は生命の危機を救ってくれたこの刀を折継丸(おれつぐまる)と名付け、神社に奉納しました。 それが現在の太刀の宮であり、参拝者は木刀を奉納する慣わしとなっている、そうです。 その太刀、私も欲しい‥ |
太刀の宮から先、 しばらく下っていくと、 弘法大師が爪で描いた と説話が残る爪書地蔵が あります。 爪で描いたものは数か所で 見ました。大変ですね。 |
どんどんみかん畑の中を 下っていきます。 この辺りもつづら折りの 農道を串刺すように 古道があり、車が通れない ような道幅も多くありました。 車が来ないほうが雰囲気が あっていいです。 まあ、車が通れる農道でも 車が走ってくることは 滅多にないんですけどね。 |
山口王子跡。 ここも蕪坂塔下王子と 一緒で宮原神社に合祀 されていますので、 跡だけですが、きれいに 整備されていました。 水飲み場があって説明を 読んでみると地下40mから 汲み上げた清水とのこと。 美味しくいただきました。 |
宮原の街に入って 紀伊宮原駅の手前にある 熊野古道ふれあい広場。 そんなに広い場所では ありませんが、熊野古道の 案内板や‥ |
大坂の八軒家から熊野三山 までの九十九王子の一覧 などがあります。 細長い奥行きのある 広場なので、奥に入れば 街中でもあまり人の目を 気にすることなく食事 などもできると思います。 こうしてみるとゴールは まだまだ先。 |
JRを越えると有田川へ。 ここには宮原の渡し場跡が あります。 もちろん、今は宮原橋と いう便利なものがあります ので、それを使います。 でも、ちょっと橋がない 時代の渡り方もして みたいような気も。 黄砂の影響がまだまだ 残ってます。 |