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大野浦の駅前をすぎ、 街中を抜けていくと、 太い道に合流します。 ここは左前方の やや登りの道へ。 |
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道は右にカーブし、その先 ここで左に入ります。 |
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ここに案内板がありました。
この舗装の下には当時の 石畳道が保存されている そうです。 案内板には「仮舗装」と ありましたが、「本舗装」に なったら、どのようになる のでしょうか。 |
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登り坂を振り返ると、 対岸にかの有名な宮島が 見えます。 |
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先程の石畳の舗装道を 登っていくと、 また太い道にぶつかります。 正面に小さな案内板の ようなものが見えますが‥ |
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案内板の左の道を入ります。 案内板はかなり劣化していて 読みにくい。 というより、ほとんど 読めません。 |
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当時の石畳が残っている 部分がありました。 ホンの少しですが。 |
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農道のような道を歩きます。 |
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すると高速道の高架に あたるので、この高架を くぐらずに高架沿いの道を 歩きます。 |
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宮浜温泉 海望の源泉地。 もともとあった源泉の湯量が 少なくなってきたので、 平成5年に新たに掘り当てた ものだそう。 |
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この辺りから案内板が 整備されています。 |
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宮浜の源泉地から3〜4分で ご覧のような所に出ます。 ここで高架をくぐり四十八坂と 呼ばれる道を行き、 残念さんへ向かいます。 ここから先、しばらくは 旧道の雰囲気満載の道を 歩いていきます。 |
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こんな案内板があるので、 すぐわかるハズ。 |
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二股になりました。 真ん中に案内板がありました が、塗装がはげ落ち、 ほとんど読めません。 残った塗装をじっと見ると、 どうも左っぽい。 基本登っていくことになる ので、登りの右のような気も しますが、とりあえず左側へ。 |
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正解でした。 この青い案内板はいくつか 途中にありました。 助かります。 |
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いい感じですね。 |
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残念さんに到着。案内板に よると、慶応2年(1866)、 四十八坂を単騎で西方へ 馳やる幕府軍の武士がいた。 これを見た長州軍は戦闘員 だと勘違いし狙撃。武士は 「残念」といって倒れた。 その武士は丹後宮津藩士の 依田伴蔵で、軍使として 長州軍営に赴く途中であった ことがわかり、長州軍は 遺憾の意を表した。 残念社は、村人が伴蔵の 戦死を悼んで祀ったもの だそう。 |
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残念さんの先には 吉田松陰の腰掛石。 松陰が江戸に護送される時、 この岩に腰かけたとか。 |
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案内板が出ているのは 有難いのですが、 この「区民ふれあい道路」と いうのが曲者。 ふれあい道路に行くと 間違いになります。 ふれあい道路に(西国街道) の文字が付いたものは正しい 道案内。ちょっとややこしい。 なので、ここもふれあい道路 の方には曲がらず直進。 |
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やがて八坂墓苑の前に 出てきます。 墓苑の前を左に曲がり、 あとは道なりに進みます。 |
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道なりに歩いていくと、 高速をくぐる感じになります が、ここはくぐらずに右折し、 高速沿いに歩きます。 |
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一番高い所では、高速の先に 宮島がきれいに見えました。 ちょっと振り返る感じです。 |
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宮島の逆方向を見ると 大竹付近のコンビナートが よく見えます。 なんとも対照的な景色です。 |
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その後、高速沿いを下って いき、道なりに高速を くぐります。 道は南向きになり、 左手の鳴川幼稚園を すぎると、道は再び 南西方向に向きます。 住宅街の中を歩きますが、 ここは直進。 |
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ここの二股は左側(直進)へ。 |
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すぐ石畳の道が現れました。 いい感じですね。 この先は鉾ノ峠。 ちなみに「たおのとうげ」と 読みます。 |
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しばらくはこんな感じの道を 歩きます。 やはり舗装道よりはこっちの こうがいいですね。 膝にもやさしいし。 |
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JRのトンネルの出口の 上を越えていきます。 かなり細い道なので、 落ちないようちゃんと フェンスがありました。 |
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ただ、トンネルを越えてから 少し線路に平行して歩く のですが、こちらはフェンス なし。 ここは要注意。 落ちると新聞に載るのは 間違いありません。 |
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すぐに住宅街の中へ。 |
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道なりに歩いていくと、 国道2号線に出ます。 目の前は海。 一気に潮の香りが してきました。 |
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国道でなく、玖波隧道を 抜けていきます。 トンネルが抜けるまでは、 あの高い崖を登っていた のでしょうか? |
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隧道を抜け、玖波の街に 入りました。 ここも昔は本陣等があった そうですが、特になにも 案内板などはありません でした。 |
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ここの交差点を右折。 |
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ガードを越えて線路の 北側に出ます。 |
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恵川を川木橋で渡ります。 渡ったらすぐ川沿いに左折し 向田橋のたもとを右折。 |
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ここから登りになり、 高速道の手前に平行して 走る道まで行きます。 写真正面に見えているのは 病院と老健施設。 |
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高速の南側にある道を 歩いていきます。 |
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やがて太い道に合流。 |
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この交差点で左折。 交差点の左角には酒屋さん。 |
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久しぶりに踏切に 引っかかりました。 踏切を越えてから、 国道2号線の手前の 道を右折し、小方の街に 入ります。 |
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小方の街に入りました。 |
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大きなショッピングセンター がありましたので、 食糧調達のため寄り道。 |
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街道に戻る途中、こんな 石碑が。 亀居城は慶長8年(1603) から5年の歳月をかけ 築城されたもの。 十万平米の規模の城だった そうです。 ところが幕府の圧力により 完成間もない慶長16年に 取り壊しになったそう。 なんともったいない‥ |
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この辺りでは取り壊された 住宅跡がかなりありました。 ここの少し先、三井化学の 大きな社宅もありましたが、 使用されていませんでした。 |
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ここでJRのガードを くぐります。 |
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高速道の手前で新町川を 渡ったあと、右折し 高速道をくぐります。 くぐったらすぐ左折し、 苦の坂を目指します。 |
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ダラダラとした登り坂を 登っていくと、 やがて右手に橋姫神社。 もとは別の場所にあった のですが、山陽自動車道の 建設に伴い、ここに遷座 されてきたそうです。 |
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どんどん登って行きます。 すると‥ |
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この看板の左に見える 階段から苦の坂に向かう のですが、全面通行止。 |
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舗装道も土砂崩れで通行止。 私よりも先に歩かれた方のHPなどを見ていると、通行不可という方がほとんど。 西国街道の場合、熊野古道と違って通しで歩かれている方の絶対数が少ないため、 直近の情報をなかなか見つけることができませんでした。 ネットで探しに探してようやく昨年の11月に通った、という情報を見つけ、それを信じてきてみました。 ここまで来て、やはりダメで迂回するとなると、相当のタイムロスになってしまうのですが、 橋姫神社の手前の民家で、犬を散歩させている方がいらっしゃったので、「苦の坂は通れますかね?」 と訊ねてみました。「かなり荒れているけど、歩きなら通れるよ」とのことでした。 実は通れるか不安だったので、2月の頭に通ることができるか大竹市にメールで 通行できるかどうか問い合わせをしたのですが、残念ながら返信なし。 しかし、ここを歩いた翌日に、「通れます」との返信が。なんともタイミング悪い‥ |
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ご覧のような足場階段が 設置されていて、通行できる ようになってました。 |
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仮設の階段を登ると、一気に 古道へタイムスリップ。 |
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竹林の気持ちのいい道を 登っていきます。 |
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郵便局のマーク。 コンクリート製の小さな 祠程度の建物ですが、 何に使っていたものなの でしょうね?? |
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仮設階段のところから 5〜6分で苦の坂の峠に到着。 安政の大獄で囚われの身に なった吉田松陰も、 安政6年(1859)五月、 この峠を越えて江戸へ 送られたそうな。 |
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峠の先は下りになります。 |
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大きめの石がゴロゴロと 転がっていて歩きにくい。 |
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倒木がある場合、くぐるか、 乗り越えるか、ですが、 これぐらい低い位置にあれば 短い私の足でも乗り越える ことができます。(笑 |
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峠から10分ほど下って くると、小瀬川が見えてきて 麓まで降りてきました。 |
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降りたところ、左手には ちきり池神社。 |
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苦の坂の案内もありました。 慶応二年(1866)の幕府軍と 長州軍との戦いの様子が 詳しく書かれています。 |
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しばらくの間は小瀬川沿いの 国道186号線を南下して いきます。 |
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左手には大元神社。 |
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小瀬川は山口県サイドの 呼び名で、広島県サイドから は木野川と呼ぶそうです。 ちなみに、国が定めた名称は 小瀬川。 |